ふりがな:うちのみささぎ
延喜式に「宇智陵 皇后井上内親王 在大和国宇智郡 兆域東西十町 南北七町 守戸一烟」とあります。
現在の御山町にある御廟が比定されています。
当時の1町がどれほどの長さか分かりませんが、
現在のメートル法に換算すると東西約1100m、南北約760mとなり、かなり広い陵でした。
現在はその10分の1ほどになっています。
井上内親王は宝亀6年(775)4月27日に亡くなり、この地に葬られたこととなっていますが、当初は庶人としての扱いでした。
ところが都に天変地異が起き、光仁天皇周辺で災いもあり、
これが井上内親王の崇りだと信じたことから、宝亀8年、墓を改葬し御墓と称しました。
さらに翌年にも御墓を改葬しています。
桓武天皇の時代となっても近親の人々が早世したり病気になったりしたために、延暦19年(800)、葛井王を遣わして井上内親王を吉野皇后とし、御墓を御陵と称するようにしています。