2017年1月26日

御霊神社本宮

御霊神社本宮

 

創建

宇智郡(旧五條市と大淀町佐名伝)には御霊神社が23社あると伝えられ、その分祀元が五條市霊安寺町の御霊神社です。このことから、この神社を御霊神社本宮と呼びます。

本宮は、井上内親王、早良親王、他戸親王を祀り、丹生川をはさんだ対岸にある火雷神社を併せて、古より四所大明神と称され、宇智郡の信仰を集めていました。

日本後紀によれば、延暦19年7月、桓武天皇は葛井王を宇智郡に遣わして皇后の復位や御墓を山陵と称することを告げさせています。このときに葛井王により霊安寺が建立され、同時に御霊神社も創建されたと伝わっています。

「御霊大明神御縁起」には、桓武天皇は宇智郡全域を神域としたと伝えています。

 

宮分け

御霊宮本紀には、嘉禎4年(1238)2月、「吉原与牧野争論分譲請神于十所矣」としています。
河南の豪族である吉原氏と、華北の豪族の牧野氏が言い争ったことで、御霊神社が十か所に分祀(宮分け)されました。

たった1行で伝えているため、争論の内容や理由などは分かっていません。

西阿田、佐名伝、山田、小島、六倉、岡、二見、中之、黒駒、近内の御霊神社が初めの十社と言われ、
次いで、南阿田、湯谷市塚、島野、釜窪、丹原、久留野、小和、牧、畑田、三在、住川、野原に分祀されていきました。

新しく創建されたり、以前からあった神社の場所に併せ祀ったりして、宇智郡一円に御霊信仰が広まりました。
本社を含め23社のうち、現在22社が確認されていますが、畑田町の御霊神社は確認されていません。
同町に鎮座する八阪神社に合祀されているものと推測されるが不明です。

国道24号線の本陣交差点を南に入ると、吉野川に架かる大川橋の手前に一の鳥居、国道168号線より本宮に上る坂道の入口に二の鳥居、本宮に三の鳥居がありましたが、昭和25年(1950)頃から始まった吉野熊野電源開発に伴う国道の拡幅工事により、一の鳥居が撤去されました。
二の鳥居は、通り抜けようとしたトラックにより破損され撤去し、現在は三の鳥居のみが残っています。
この三の鳥居は一の鳥居を移設したものです。

 

本殿

本殿は三間社流造で、宇智郡内最大の社です。
現在の本殿は棟札により寛永14年(1637)造営のもので、大宮銀子請取払帳によると、造営に銀八貫五百九十六匁二分を要したことが記されています。
当時のレートで約1600万円かかった計算になりますが、現在の価値に直せばいくらになるのか想像もつきません。

享保11年(1726)、延享3年(1745年)、天保10年(1839)、嘉永6年(1853年)、明治41年(1908)に改修されていますが、創建当初の形式はよく伝えられていて、江戸時代初期の典型的な社殿となっています。

昭和29年(1954)に奈良県指定の重要文化財となっています。

鎮座地 奈良県五條市霊安寺町2206番地
連絡先 社務所:0747-23-0178

 

 

御祭神

本殿 : 井上内親王(いかみないしんのう)
聖武天皇の皇女・光仁天皇の皇后・後、廃皇后・宇智群没官の宅に流罪・逝去(母子同日暗殺される)。

南脇社殿 : 他戸親王(おさべしんのう)
井上内親王御子・皇太子・後、廃皇太子・宇智群没官の宅に流罪・逝去

北脇社殿 : 早良親王(さわらしんのう)
他戸親王の異母兄弟・桓武天皇の御弟・皇太子・後に長岡遷都にからみ配流。

別宮 : 火雷神(ほのいかづちのかみ)
井上内親王配流の途中御誕生。雷神になられる。御山町に鎮座。式内社。

 

アクセス

【電車・バスをご利用の場合】

JRご利用の時はJR和歌山線 五条駅下車。

五條バスセンターから、奈良交通バス(新宮行、十津川温泉行、城戸行)に乗車、
「霊安寺バス停」にて下車、バス停より徒歩8分。

 

【お車をご利用の場合】

国道24号線 本陣交差点で十津川方面168号線へ。
吉野側にかかる大川橋を渡り、五條病院を過ぎて約500m。
理髪店のある左手の坂を上ったところ。