2017年1月26日

霊安寺

霊安寺

よみがな:りょうあんじ

 

「霊安寺」の文字が文献で最初に見られるのは、日本後紀の延暦24年(805)2月6日。

「令僧一百五十人。於宮中及春宮坊等。讀大般若經。造一小倉於靈安寺。納稻卅束。又別收調綿百五十斤。庸綿百五十斤。慰神靈之怨魂也。」とあります。

宮中で僧150人に大般若経を読経したこと、霊安寺に倉を一棟建て、稲30束を納め、怨魂の神霊を慰めるために調綿150斤、庸綿150斤を納めたことが分かります。

霊安寺の創建は定かではありませんが、この時にはすでに存在していて、伝承では葛井王が宇智郡に遣わされた延暦19年(800)に創建されたといわれています。
また、このときに御霊神社も創建されたと伝わっています。

類聚三代格には、弘仁7年(816)10月23日に太政官符が出され、
「応出挙霊安寺料稲四千束事、此寺構作年久、徒有伽藍之名、未修説法之事、宜割正税四千束毎年出挙、用其息利充春秋悔過并修理料」と記されています。

霊安寺は伽藍はあるが法会が行われていないので、稲4000束を治め、その利息で春秋の悔過ならびに修理の費用に充てるというものです。
この頃から寺は大きくなっていったと考えられます。

 

現在の御霊神社社務所のすぐ西側が本堂跡と伝わり、
当麻寺に現存する三重塔と同じ規模の塔が建っていたであろうと推測される礎石が発掘されています。
この礎石は現在も見ることができます。
この少し南方には「大御堂前」という字名が残り、この辺りは金堂跡と言われています。

 

大和名所図会には「正長元年(1428)の秋兵火にかかりて神社・仏堂・本地四仏の像も一時のけぶりとなる」とあります。
この時のことは、畠山記に詳しく記されています。

11月下旬、宇智郡に土一揆が起こり、霊安寺の僧を追い出して600人余りが立て籠もりました。
一揆鎮圧に向かった軍勢は1300余騎でしたが、武術に慣れた一揆の勢力は強く、成果がはかばかしくない。
そこで、強風を利用して草に火を放ちました。火は瞬く間に燃え広がり黒煙が空を覆いました。
そして一の鳥居を駆け抜けた軍勢に驚いた一揆の勢力は右往左往に乱れ立ち、討ち果たされました。
強風にあおられた火の勢いは強く、疾風雷音の如く起き、御霊四所の社、本地堂、神社、仏宇、民家に至るまで、煙滅すること500カ所に及んだと記されています。

 

その後、再興されたものの、明治の神仏分離令により、御霊神社の神宮寺であった霊安寺は廃寺となり、御霊神社だけが残りました。霊安寺の仏像什物などは満願寺に移されました。

現在は霊安寺という地名が残っています。

満願寺の本堂には、准胝観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音が安置され、これらの仏像は霊安寺から運ばれたものです。
また、境内にある鐘楼は御霊神社にあったもので、元禄3年(1690)の鋳造となっています。

表面には、「大和州宇智郡霊安寺邑之鎮守御霊大明神者相伝厥初嘗祝裡井上皇后出霊仰以為廟神也」から始まって御霊大明神の信仰が記されています。