2017年1月21日

物語・歴史

井上内親王

歴史

井上内親王は、聖武天皇の皇女として養老元年(717年)に生まれました。
母は県犬養宿弥刀自(あがたいぬかいのすくねとじ)です。

養老5年、斎王に選ばれ11歳にして神宮に出仕します。

天平17年、任を解かれ帰郷し、その後に白壁王とご結婚されました。

天平宝字5年、白壁王との間に他戸親王が生まれます。

宝亀元年(770年)白壁王が即位し、第49代光仁天皇となります。それにより、井上内親王は皇后となります。

宝亀3年、巫蠱の罪により、皇后・皇太子が廃され、さらに宝亀4年、井上内親王母子を厭魅(えんみ)の罪により、大和国 宇智群没官の宅に流罪、幽閉。

配流の途次、この地に至り、火雷大神をお生みになったと伝えられています。

宝亀6年(775年)4月25日(27日の説もあり)、
井上内親王(59歳)・他戸親王(15歳)にして、母子暗殺され逝去と伝えられます。

 

物語

称徳天皇は皇太子を定めずに崩御。
次の天皇を誰にするかでもめた末に、62歳の白壁王が皇太子に迎えられました。
白壁王は光仁天皇となり、井上内親王は皇后に、他戸親王は皇太子となりました。

しかし、他戸親王の異母兄である山部親王を皇太子に推す一派は、他戸親王の失脚を狙う策略を練ります。

それは母である井上内親王を皇后の位から引きずり下ろすことで、他戸親王の皇太子廃止を狙うものでした。

 

宝亀3年(772)、井上皇后は天皇を呪う巫蠱の罪により皇后を、他戸親王は皇太子を廃されました。

続いて、光仁天皇の姉である難波内親王を呪い殺したという厭魅の罪で、
宝亀4年10月、他戸親王と共に宇智郡の没官の宅に幽閉されることとなりました。

奈良時代末期には、木製の人形を用いて人を呪うことが多く行われていました。
これを逆手にとって、人を陥れる手段にも使われていたそうです。

他戸親王は次の天皇を約束された身分であり、高齢の光仁天皇を呪わずとも、そう遠くない将来に天皇となるため、巫蠱や厭魅を行ったことは疑わしいです。

 

宝亀6年4月27日、井上内親王と他戸親王は、同日に亡くなっています。
暗殺されたと伝わっています。
朝廷内には他戸親王派も多くいたので、返り咲きを恐れたのかもしれません。

 

ここまでの話をマンガで読む:マンガで見る井上内親王

 

続日本紀によると、二人が亡くなって2か月後から異変が始まります。

光仁天皇擁立の功労者である藤原蔵下麻呂が死没。
翌年9月、瓦石や土塊が毎夜落下し20日余り続きました。

さらに翌年の3月には宮中に妖怪が頻繁に出没したため、大祓を行い僧600人に大般若経を読ませています。
9月には蔵下麻呂と並んで光仁天皇擁立の功労者であった藤原良嗣が死没します。
冬には井戸水がみな涸れてしまったと伝わっています。

 

鎌倉時代の歴史物語「水鏡」によれば、井上内親王失脚の首謀者であった藤原百川の夢に、鎧冑を着た者が百余人たびたび現れ、同様の夢は光仁天皇や山部親王も見たそうです。

これらは井上内親王の霊によるものだと考えた光仁天皇は、井上内親王の墳墓を改葬して御墓と称し守冢一烟を置きました。翌年には壱志濃王、石川朝臣垣守を遣わして改葬しています。

 

桓武天皇の世になっても井上内親王母子の影は纏わりついていたようです。

延暦元年(782)、氷川真人川継の謀反が発覚したり、
三方王らによる天皇呪詛もあったりで、危険を感じた桓武天皇は長岡京に遷都します。

だが、ここでも長岡京遷都の主導者である藤原種継の暗殺事件が起こり、
他戸親王の異母兄である早良親王が首謀者として捕えられました。

早良親王は無実を主張して断食し、淡路へ流される途中で死去します。

この後、桓武天皇の夫人・旅子が30歳で、次いで母である高野新笠、さらに皇后藤原乙牟漏が31歳で亡くなります。
桓武天皇が井上内親王、他戸親王、早良親王の崇りと考えたであろうことは想像に難くありません。

 

延暦19年(800)、葛井王を宇智郡に下向させて井上内親王を皇后に復することを告げさせ、御墓を御陵としました。
淡路には調使王らを遣わして早良親王を崇道天皇と追号しました。